
ヨガは体に変化をもたらし、マインドを変えていく。
こんなに素晴らしいものは大勢の人に広がっていくことで、調和的な世界になる。戦争も無くなるし、きっと良き未来に繋がっていく。漠然とそんなことを思い、子育てをしながら勉強しヨガ講師の資格を取り、公民館でのヨガ教室を中心にヨガのお仕事をいただけるようになりました。
ヨガに出会うまで
そんな私は、ヨガに出会うまで、人から目線を大事に握りしめながら、生きてきました。
人からの評価が全てでしたし、自分をよく見せようと無理をしていた事も多くありました。自分の理想像があるので(それもテレビや一般的に言われる素敵な人像)それに背くような事を言われると、受け入れられなかったし、ムッとしていた。プライドも高い。自分の評価を周りに預けていたので、いい人であろうとしていたし自分の意見を言うのが怖かった。嫌なことをされても嫌と言わずニコニコしていたり、自己犠牲な自分もいた。
なので、よく悩みがあったし、その悩みに振り回されるも事もあった。
自分自身の変化と増えていくエゴ
ヨガを続けていく中で、終わった後のスッキリ感が心地よかった。根拠はないけど、一生やっていたいと感覚で思ってた。ホットヨガにいきながら、瞑想的な時間に不思議な感覚だった。
人の意見や、周りの声よりも自分の内側の声が届くようになってきた。自分らしく生きる。感じるように動いていくようにもなり心地よい時間が増えていった。
でも、それと同時にヨガ的な生き方こそが善だって訴える自分も増えていった。きっとそうじゃない人を見ると否定していたんだと思う。お肉は食べたくないし、虫も絶対殺さない。私はヨギーとして生きると決めたからと、そしてヨガはみんなに変化をもたらしてくれるから。と
そして、私は人を変えられると思っていたのかもしれない。自分も変わったから。それはきっと世界も変えてくれると。いろんな情報を目にするたびに、起こるたびに、どうにかできないか!と肩に力を入れてどうにかしようとする『どうにか侍』が出てくる。
長女の気質なのか、どうにかしてあげようとする自分は、周りのことで手がいっぱいになることもありました。日本での政治がおかしいと思えば政治団体に属したみたり、家族のことにも過剰に首をつっこむ自分もいた。きっといろんなことを変えられると思っていたから。自分の体が何個もあればいいのにと思うこともあった。
でも政治団体の中身は、不調和の塊だった。裏切り、嘘、下心、、こんなので変わるのかな?と思ったしそれよりも大事なのは自分自身が穏やかで整うことだなと感じた。
家族のことは、余計に何か起こるようにもなって、私に頼るようにもなって、今考えるとこれも勝手な自己犠牲。自然とヨガの仕事が忙しくなり、物理的にそこに向けるエネルギーが小さくなった。それはそれでなんとかなっている。自分がいなければならないと勝手な思い込みと承認欲求、そしてお節介だったなと今となれば感じることができる。
ヨガは道具
そんな私にとっての絶対的なヨガ。私は目的地に向かう際、例えばワクワクでたまらないユニバーサルスタジオに向かうとする。同じ方向に進んでいる車を見ると、テンションが上がってもうみんなユニバに行くじゃん!と勝手に思ってしまう。それと同じで、みな自分と同じだと勝手に思い込んでしまうことがあります。
最終変えられないことも、ヨガ をすることで整っていく。体が変化し内側の豊かさが変わっていく。そう信じているし素晴らしいもの。
だけど、そんなヨガもツールだと言うこと。道具でしかないということ。
ある人にとったらそれが、楽器なのかもしれない。筆かもしれない。あるいは、包丁とまな板であるのかもしれない。私にとったらそれがヨガだったと言うこと。
でもそれも、今の私はそうかもしれないが10年後は変わっているのかもしれない。なぜなら全ては変化して行くから。
そんなことを、ヨガ講師としてレッスンをしながら、いろんな出会いや経験が私に教えてくれる。
それは、ヨガの聖典に書いてあったことかもしれない。ヨガは道具でしかないということを。有名な人が、発信していたかもしれない。
理解していたつもりで、本当の理解は経験と自分の気づきの中にあるのだなと感じます。
ヨガは魔法ではないし、結局ヨガで心の平穏を得られるのは自分自身の経験と気づきだと思うから。
出会う生徒さんにどこか、エゴを押し付けていた自分自身もいたかもしれない。私の伝え方が良くないのか。言葉の使い方、在り方。そうではないのかもしれない。ヨガの中でも流派が分かれているように、気づきや成長をもたらせてくれる道具は、みんなそれぞれ違うということ。
ヨガを実践しながら増えていったエゴ。そのおかげで、気づけた学びがありました。
色々なものを変えようとしていた自分自身の肩の力を抜いていこうと思いました。


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